私の「時刻表2万キロ」~JR全線完乗への道~(第6回)

乗り鉄

一人旅をこよなく愛する、アラカンサラリーマンのOusuiです。

私は、2017年11月に、JRの鉄道路線を全線完乗しました。

50代を目の前にして、学生時代以来となる「乗り鉄」の世界に復帰し、どのようにしてJR全線完乗に至ったかを綴っていきます。

2015年12月30日 九州新幹線・久大本線

今回は、年末年始の帰省を利用してのプチ旅行です。

羽田空港を8:45に発ち、熊本空港には10:45に降り立ちます。空港連絡バスで新八代には12時ちょうどに到着。

ここから博多までの九州新幹線が未乗区間となっていました。

九州新幹線の路線図(出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)


(ここから、話は横道にそれますが)

九州新幹線の新八代~鹿児島中央間が開通したのは、2004年6月のことです。他の新幹線と接続しない独立した区間での部分開業でした。新八代駅では、新幹線と在来線が同一ホームの対面で乗り換えられるように、不便さをできるだけ軽減できるようになっていました。

この区間には、開業から4年後の2008年に乗車しています。

鹿児島中央から乗車すると、車内は九州らしい南国のオレンジ色を基調としたデザインで、小田急のVSE車に雰囲気が似ています。わずか45分で新八代駅に到着し、その日は日奈久温泉に泊り、翌日新八代からリレーつばめ号で博多方面へ向かっています。


それから3年後の2011年3月12日に、九州新幹線が全線開通します。

開業日は、奇しくも、東日本大震災の翌日で、予定されていたセレモニー等は全て中止になったそうです。

その当時のJR九州社長・唐池恒二氏は、日経新聞の「私の履歴書」で次のように語っています。

運行管理部の列車指令からの一報で知り、すぐに社長室のテレビをつけて事態の深刻さを理解した。幹部を集め、「あすの開業に伴う式典はすべて中止する」と宣言する。各地で開く式典準備には労力も時間もかけてきた。東京などとは違い九州に直接の被害はない。

遠い場所の災害という思いもあるためか「規模を縮小して式典を開けないか」という空気もあった。しかし私は「これは国難。日本として一つになるべき時だ」と言い切った。非常時に素早く決断するのもリーダーの役割だ。

翌日、何の式典もないまま博多駅から鹿児島に向け新幹線が出発した。私はこっそりホームに行き、車体をなで、走り始めた列車を見送った。用意したスピーチ原稿は没になったが、冒頭部分だけ社内報に転載した。「さくらが咲きます つばめが舞います みずほが豊かに実ります」。九州を走る新幹線の愛称を3つとも盛り込んだ。

日本経済新聞 2023年3月23日 唐池恒二「私の履歴書」

(話をもとに戻します)

全線開業時にそんなことがあったとは露知らず、新八代12:37発の九州新幹線に乗車。

50分足らずの13:26に博多駅に到着します。

リレーつばめ号が最速でも1時間半以上かかっていましたが、やはり新幹線のスピードには脱帽です。2023年3月現在、博多~鹿児島中央間は、最速のみずほ号では1時間16分となっていますが、かつてはこの区間に夜行列車が走っていたことを思うと隔世の感があります。


博多でランチをとって、14:45発の鹿児島本線の列車で久留米へ向かいます。

久留米から大分までの久大本線が未乗区間となっていました。

久大本線の路線図(出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)

久留米を15:13に発車した列車は、およそ1時間かけて終点の日田駅に到着したのが16:16。

たった2分の乗り換えで、16:18発の大分行きに乗車します。

日田から天ヶ瀬までの11.9キロが、久大本線の最後に開通した区間で、1934年(昭和9年)に全線がつながっています。

豊後森駅でやや長めの停車。この次の恵良から肥後小国まで国鉄宮原線が走っていましたが、1984年に廃線となってしまいました。1980年代には平日に全線を走る列車が1日3本しかなかったそうです。

すっかりと日の暮れた18:35に大分駅に到着。別府まで行き、「ゆわいの宿 竹乃井」に泊ります。

2015年12月31日 日豊本線・篠栗線(+北九州高速鉄道・筑豊電気鉄道)

今日のスタートは9時前となっていて、それまで別府の町を散策します。

明治12年(1879)創設された竹瓦温泉の外観がひときわ印象に残ります。

さて、昨日乗車した日豊本線の大分~別府間と、本日乗車予定の別府~城野間が未乗区間でした。

日豊本線の路線図(出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)

この区間はおそらく、実際には学生の頃に乗ってことがあるのでは?と思うですが、残念ながら確かな記憶も記録もなく、今回が正式な乗車記録となります。

8:51発の特急(おそらくソニック号)で、小倉には10:03に到着。2023年3月現在も、まったく同じダイヤでソニック14号として運行されています。


まだ早いので、ここから私鉄路線の乗りつぶしにモードチェンジし、小倉~企救丘の北九州高速鉄道(北九州モノレール)に挑みます。

北九州高速鉄道の路線図(出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)

北九州モノレールの開業は1985年ですが、開業当初は小倉駅まで直結しておらず、現在の平和通駅と企救丘駅間での営業となっていました。小倉駅までの徒歩連絡のため利用者数は低迷していたようですが、1998年に小倉駅まで開通してようやく単年度では黒字がでるようになったそうです。

小倉を10:20に発車したモノレール車両は、10:37に終点の企救丘に到着。


企救丘駅に隣接する、日田彦山線の志井公園駅へ向かいます。

志井公園駅の開業は、北九州モノレールより後の1989年で、当初はモノレールよりJRの方が運賃が安く、モノレールの客を奪われることを懸念した北九州市が設置に反対していたという経緯もあるようです。

日田彦山線で西小倉まで行き、鹿児島本線に乗り換えて、11:23に黒崎駅に到着。

ここから、筑豊電気鉄道に乗車します。

筑豊電気鉄道は、黒崎駅前~筑豊直方を結ぶ16.0キロの路線です。

もとは、熊西~筑豊直方間の路線でしたが、2015年に西日本鉄道の北九州線(黒崎駅前 – 熊西間)を会社分割により鉄道事業を継承して現在に至っています。

黒崎駅前駅を11:48に発車した電車は、しばらくJR鹿児島本線と並行しますが、2駅先の熊西を出ると、進路を南西方向へ大きくカーブして進み、遠賀川を渡ると終点の筑豊直方駅に12:21に到着。


筑豊直方駅は、JRの直方駅から思いのほか離れた場所にありました。

10分近く歩いて、JR直方駅に辿り着きます。

直方からは、12:59発の福北ゆたか線・博多行きの電車に乗車。桂川までは筑豊線ですが、ここから先の篠栗線は初めて乗る区間となります。

篠栗線の路線図(出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)

篠栗線の吉塚~篠栗間の開業は1904年(明治37年)とかなり早い時期ですが、篠栗~桂川間はその約60年後の1968年(昭和43年)と比較的新しい路線となります。途中に篠栗トンネルという長大なトンネルを掘る必要があったためといわれていますが、この路線の開業により、筑豊地区と博多がダイレクトに結ばれるようになりました。

2001年には全線が電化され、福北ゆたか線という愛称で博多と筑豊地区の飯塚・直方を通って、黒崎までの電車が運行されています。

博多駅へは、1時間足らずの13:57に到着しました。

帰省を利用した、今回のプチ乗り鉄もこれにて終了。

今回の総括

最後に、今回乗車した路線・区間・距離をまとめておきます。

JR線

会社路線名乗車区間乗車キロ
JR九州九州新幹線新八代 – 博多151.3
JR九州久大本線久留米 – 大分141.5
JR九州日豊本線大分 – 城野126.8
JR九州篠栗線桂川 – 吉塚25.1
合計444.7

私鉄・第3セクター線

会社路線名乗車区間乗車キロ
北九州高速鉄道小倉線小倉 – 企救丘8.8
筑豊電気鉄道筑豊電気鉄道黒崎駅前 – 筑豊直方16.0
合計24.8

コメント

タイトルとURLをコピーしました